1つの区切りである。3年の秋というものは。
自己分析を兼ねてこのブログを書きたいと思う。
自分が大学から自転車を始めて、繰り返し失敗し、どのような思いを持ちながら自転車と向き合ってきたのかを時系列順に辿っていきたいと思う。
旧ブログから積み重ねること約500回ブログを投稿してきた。今一度振り返っていきたいと思う。
この総まとめブログで後輩が些細なことでも気づきを得れれば私としては嬉しい。
入部前の私
スポーツ経験:小中高サッカー部(ポジション:センターバック)
自転車:親の趣味でもあったのでロードバイクは所有。高校生の時には通学遠征で使っていた
浪人1年経験 体重は70kg越えのデブ
2018年
5月
同期経験者の原、纐纈の足元にも及ばない実力。一緒に練習することさえままならない。基本的に尚弘、築、自分の3人で競い合う形。
小山田病院坂で飯井さん、尚弘に千切られたのは今となっては遠い昔の話だな。
朝練が始まる。G練こそが私を作り上げた原点である。
ひたすら朝練でG登ってた。
ちなみに1kmTT 1:26秒笑
・思っていたこと
まだ始めたばかりなので同期に追いつけないことは気にしなかった。
ただ築、尚弘にだけは負けないという心持ち。あとはひたすら先輩についていく。
自分デブすぎるなー。筋力もカス以下。
2018年
6月 921km
ITTで学連デビュー
脚を見て貰えば分かる通り、筋肉無し。
自分はひたすらG坂を繰り返し登ることに執着し始める。G×10を土曜(授業があり、全体練出れず)に自主練としてやっていた。
この時期、Gは1日に最大21本登っている。小野さんからジャイアンツエクゾディアという名を頂いた。
あとは自走登下校は欠かさないようにしていた。
この頃から急激に強くなり始め、当時の4年生に勝ったりするようになる。
・思っていたこと
G坂が一番筋トレじゃね?
自主練の量で先輩に追いつく
・今となって思うこと
G坂での高強度練、自走登下校のベース練という組み合わせを繰り返したことが急激に強くなった要因では。この時の自分はコンタドールに憧れていたこともあってくねくねダンシング多め。
2018年
7月 770km
RCS草津ナイトレース 11位
このレースで纐纈が昇格した。これから纐纈と一緒に走るレースは2年の六大学ロードまでお預けとなる。
とりあえず目標は完走であったので達成できて良かった。後半に向けて位置を上げていくスタイルをとっていたが、最初から前にいた方がいいと悟る。
・RCS白馬クリテリウム 1日目15位 2日目8位入賞
1日目はスタートの並びが遅く、白馬独特の道の狭さ悪さで全然前に行けず、後方に行けば行くほどかかるインターバルに苦しんだ。
2日目は前日の反省を生かし、前から2列目に並ぶ。スタート後はひたすら4-6番目を走り先頭は引かない。最終周の最後から2番目のコーナで落車が起き、前を走っていた全員がいなくなる。どうしたらいいのかわからなくなり、ひたすら先頭を引かされ最後スプリントで抜かれまくった。結果は入賞。十分といえば十分な結果である。
今思えばこの時に慢心が生まれたことは事実であり、この慢心がクラス2昇格に時間がかかってしまった一つに原因のように思われる。
この写真に写っている自分以外の人が全て1年以内にクラス2に昇格する。
この頃の練習ではG練、R練、全体練で部内での上位の実力に達していた。
・思っていたこと
昇格はすぐ達成するであろう。自分は強い。まだまだ伸びる。
2018年
8月 1907km
夏休みである。
合宿は松本合宿、修禅寺合宿、蓼科合宿の三つ。
松本合宿では逸見さん、熊谷さんに本当にお世話になった。ずっと一緒に走っていた。峠では宮本築との一騎討ちになることが多かった。築にだけは負けたくなかったので意地で勝ち続けた。
宮本築とは幾度となく戦うライバル的関係であったが、私の勝った回数の方が遥かに多いとだけは言っておく。
この頃はもう当時部内最強の主将小野さんと峠で一番争うようになる。ほとんど勝てなかったが、美鈴湖の壁と呼ばれるところでの戦いで一回勝つことができた。これは自分の中で大きな自信につながった。
自転車はこの時からSL4になる。
今の1.2が見ると新鮮な写真かと思う。辻本さんがいて、熊谷さん、小林さん宮本が走っている。
・思っていたこと
自転車楽しい。峠で競り合うのめっちゃ気持ちいい。
1年生の時全般に言えることだが何も考えていないのである。
2018年
9月 987km
インカレである。
2018年インカレロード は小野さんが残り1周でDNFになった。
コース途中の畑の中でぶっ倒れていた。本当に力尽きるまで走ったのである。
この小野さんの状態と迎えにきた当時の4年生たちの泣いている姿が印象深い。
この出来事が自分の中で「自分は本気で取り組んでいるか」を常に考えるようになったきっかけである。
そしてお世話になった4年生は引退する。
インカレが終わると9月はまるまる自主練期間(これの是非は長年議論されている)である。
自分は一人でGやRや小山田を走り、いまいちな練習を行う。
いまいちと思っている理由はただ走っているだけで練習した気分に陥っていたと今となっては思うからである。
小山田10周単走やったなー、懐かしい。
・9/9 RCS山形村ヒルクライム 6位入賞
今思えば頭おかしいコースだよな。ラスト1kmずっと斜度15%越えの石畳。
それをなぜか3回も登らされるのだから気が狂いそうだった。
昇格はできなかったが、クリテ、ヒルクラ両方で入賞というのはオールラウンダーとしていけるのではという自信につながった。
3本目に不調に陥った時、いいさんが前でペースメイキングしてくれたご恩はいまだに忘れない。
・9/17 RCSけいはんなサイクルロードレース 50位
序盤から先頭付近で展開、しかしいまいち調子が良くなく心肺が残り2周で限界を迎え、先頭から千切れてゴール。
普通に昇格する気でいたので悔しかったが、まだ1年生ということで焦りはなかった。
この頃に引退した逸見さんからパワーメーターを購入し、パワーが普段から分かるようになる。
・思っていたこと
あれっなんか強くなるペースが落ちたような。全然強くならない。
2018年
10月 1188km
大喜多政権発足
当時2年の小林パイセンの世代の人数が少なく、全体練の人数が少なくなる。
最大で、(三宅さん)小林さん熊谷さん石井高潔佐藤宮本(原)の7人である。うち2人はほとんど来ないので、多くて5人の練習。
R練、G練を引き続き朝練で行う。小野さんがいなくなり、原が練習に来ないのでほぼ自分が一番強いみたいな状況になる。それはそれで気持ち良いものだった気がするが、実は全然強くなってはいなかった。
パワーメーター導入によりパワーは分かるようになったが、パワートレーニングに関する知識はなくただ測って前回と比べてどうだったかぐらいしか考えていなかった。
・RCS大島三原山ヒルクライム 4位入賞
「個人的には優勝を目指して最低限でも表彰台と捉えていただけに今回の結果は悔しい。これからはヒルクライムと名のつくレースには山形村と同じ50-34、11-28でいこうと思う。少し自分の力を過信していた。でも失敗してもそこから学べばいいのである。あとヒルクライムレースを二つ出て思ったのは最初の集団がかち上げてもあまり影響されず自分のペースで登った方が結果として速いということである。
パワーメーターの情報によると20分間277wという自己新記録を作れたので、最大限の力は出せたのではないかなと思う。」(引用元、自分のブログ)
こういうことである。初歩的なミスを犯したのである。ヒルクラなのに36-25で望んだのである。もちろん回せない、SFR状態である。先輩の反対(新人戦と被っていた)を押し切って、昇格してきますと発言して出場したので悔しかったし情けなかった。
・思っていたこと
全然出せるワットが上昇しない。引きづられることがあまりないから、自分は「あれが足りない、これが足りない」とかあまり思わなかった。
人数がいないことはいろんな面において罪であると感じた。当時の小林さんの世代はたくさんの人が辞めていた。人数が少ないとできる練習も限られるし、部に活気がなく、切磋琢磨する人間もいなくなってしまう。
だからこそ2019年に新しく入ってくる人たちには出来るだけ辞めないようにしようと強く思った。
2018年
11月 1085km
朝練がなくなる。
自分は小山田2周TTを朝練としてやっていた。
そして全体練ではいわゆる「LSD」が始まる。
このカッコ付きLSDは本来のLSDではないという意味である。
ある意味最も自分が無駄だったと思う時期が始まる。
自分含め先輩もLSDの意味を理解していなかったのである。
「LSD」は当時部内ではギアを軽くし、のんびりロング練するという漠然とした意味を持っていた。
自分もパワートレーニングを良くわかっていなかったのでとりあえず先輩の言う通りに練習していた。
LSDに関しては改めて色々書こうと思う。1年冬から2年春までの反省が2年冬から3年春までの合宿練習で生かされるのである。
・RCS行田クリテリウム DNF
「走った。位置取りに手こずった。前が落車した。自分、宙を舞う。気づけば田んぼの中。ニュートラルで復帰。ブレーキに問題発生。加速できず。足を止めた。 現場からは以上です。」(引用元自分の当時のブログ)
なかなか上がれない日々が始まったのである。
・思っていたこと
昇格できない。もどかしい。自分は昇格まであと少しだ。ちゃんと走れれば昇格できるはず。
「LSD」練全然心拍上がらない、楽すぎる。
ワット的に強くならない。9月からずっと同じ感じ。4年生引退前にはワットがわからなかったので、4年生と走っていた時の方が強かったかどうかもわからない。
2018年
12月 884km
引き続き朝練は一人小山田2周TT。
参考程度にその時のワットを出すと一周目 NP.244w二周目 NP.258。
2年生秋に同じことをやり、結果大幅に数値が上がり成長を実感することになる。
・RCS幸手クリテリウム DNF
「行田と違い位置取りが上手くいき、また加田さんと集団前方で協調しながらいい感じでレースを進めていたが4周目のコーナーでチューブラのタイヤが外れ落車。」(引用元当時の自分のブログ)
この時は本当に勝てるかもって言う展開だった。
だんだんあれ?ってなってきているところだった。自分は1年のうちには上がれないのでは?と言った不安が出始める。そして毎回応援し期待してくれる先輩方に対して申し訳なくなる。
この一件以来、リムテープは絶対に使わないと心に決める。
・思っていたこと、今思うこと
昇格するには練習あるのみのはずなのにあまり練習に危機感がない。
練習していること自体に満足してしまっている。
自分はクラス2相当の脚力であると自信過剰になっていた。
練習しないし、自分より弱いクラス2がいることが心から許せなかった。
若いな自分。
2019年
1月 741km
年初め超ロングライド宇都宮編が懐かしい。今も自己記録である1日に260km走破である。
この経験があったからどのロング練も短く感じることができた。ただもう二度とやりたくはない。
基本的に1月はテスト勉強が忙しく全然自転車に乗れず。
RCS川島町小見野クリテリウム 16位
「試合前は結構いい感じの結果は残せるだろうと高を括っていたので、この結果は非常に悔しい。 レース序盤は前から3〜4番目に位置していてここまで予想通りだったが、2周目からいろんな選手(マークしていた選手も含む)がひたすらアタックをかけ、逃げようとするので毎回対応していたら脚が辛くなり始めた。そして4〜5周目に自分も含む先頭で対応していた人達がこぞって千切れ、後は耐え忍んだ。」(引用元自分のブログ)
「LSD」練や自己満自主練の実害がこの頃から出始める。
普通についていけてないのである。高強度練が足りていないことはもちろん、練習量自体も全然足りていないのである。加えて他人と走っていないので複数人コーナーとかが下手である。
心理的には自分は強いと言った自信過剰。
この自分を殴りたい。
このレースで熊谷さんは別の組で優勝し、クラス2へ昇格する。
・思っていたこと、今思うこと
練習量が少ない。なのに練習している方だと勘違いしている。
翌月から乗り込むのに全然練習してないことは今後大きな災いをもたらすことになる。
自己満練習だめ絶対。ちゃんと何でそれをやっているのかを意識しなければならない。
あとやっぱり1人で練習するより複数人で練習した方が強くなるし、いろんな経験を得ることができる。
この時の反省が、2年秋から今に至るまで学連内でどんどん友達を増やし、積極的にいろんな人と練習するようなったことにつながる。
2019年
2月 1345km
館山春合宿の始まり。
一日160km前後を何日も走る。基本的にゆっくりのペースで。
本当にきつい。じりじり疲労が溜まりどこも上げないので基本的につまらない。
周回コースなので精神的にもきつい。
あと朝飯多すぎ。ここで自分は65kgまで増量してしまう。
初めてここで福田さんと会うことになる。この時はこんなに仲良くなるとは思っていなかった。普通にただただすごい遠い人のように感じていた(今はそうではないとは言っていない)。
RCS川島町クリテリウム DNF
「初の完全な実力不足によるDNF。残り1周で降ろされた。心拍が弱過ぎた。試験明けからベース走しかしていない自分にとっては当たり前かもしれないが、おそらく去年の白馬の時より弱い。」(引用元自分のブログ)
もうただ弱いだけの人間になってしまったのである。比較的得意だったインターバルや、地脚が全てなくなっていた。自分はクラス2に上がりたいのに何でペース練ばっかりやってるんだろうって何度も思った。でも歴代の先輩がやってきた「LSD」を信じて館山を走っていた。
中旬ごろ、膝が痛くなり始める。合宿でまともに走れなくなってくる。
21日、完全に膝がボンバー。途中帰宅からの完全療養体制に入る。
ちなみにこの時のFTP240wくらいだった気がする。
・思っていたこと、今思うこと
本当にLSDって効果あるの?弱くなってる気しかしないけど…
膝痛の原因は明らかいきなり練習量が増えすぎたためである。
加えて寒さは筋肉を硬直させ、靭帯を痛めやすい。ストレッチをもっと行なっていればよかった。
体重増えた→平坦強くなると漠然と考えていた。実際ヒルクライムができなくなり、別にワットも上昇せず、ただデブっただけで終わった。
2019年
3月 1181km
1週間ほど休養を挟んで徐々に練習再開。
神宮に向けて高強度練を膝の様子を見ながら行う感じ。
・RCS最終戦神宮外苑クリテリウム 6位
RCS最終戦かつRCSの仕組み的に最もレベルの低くなるレース。
本当に悔しかった。
このブログの書き方からしてわかるように、何がダメだったのかを真剣に分析し次どうするってことを真剣に考えるようになってきている。
だんだん自分の自我が出てきた。
・合同合宿
ここでの出会いが大きく自分のコミュニティーを広げることになる。
長らく慶應は合同合宿に参加していなかったが、当時部員が少なかった慶應においては練習仲間を増やすことは必要であり、他校の選手と関わることで新たな発見が得られると強く思ったので自分は参加することを強く求めた。
「今回の合宿でレベルの高い選手が沢山いる事がわかり、日々の練習をしっかりやっていかなければ勝てないと実感したのでこれからの練習を危機感を持ってやっていきたい。(今回だいぶナメられたので)」(当時のブログより)
この合宿を通して本当に強い選手がたくさんいることを知った。井の中の蛙だった自分にとってはとてもいい経験になった。ここで出会った学習院大の池田さんと長谷川大は都内某所練を一緒にする仲になる。負けられないというライバルをたくさん作れたこともよかったと思う。
その後は館山に戻って最後の館山合宿。
TTT練をしてた。この頃から高強度練が再開された。しかし自分は弱かった。
この時の20分最大ワットは261wです。雑魚です。
#このあと半年で50wあげるYタロー
・思っていたこと
自分が今必要なことは何か。
毎回しっかり反省して二度同じ過ちを繰り返さないようにしよう。
しっかり練習をしていこう。
・1年生を振り返って
とりあえず強くはなった。ただ漠然と目の前にあることをこなしていただけで、強くなった理由などについて考えることがなかった。
だからこそ1年生後半は伸び悩み、挙げ句の果て弱体化してしまった。
ただこの失敗があったからこそそこから得た学びがあり、2年生後半からの急激な再成長があるともいえる。もう過去を変えることはできないので、もうポジティブに捉えるしかない。
加えて言えることは1年生のうちは世界が狭かった。知り合いは慶應自転車部にしかいないし、他校の知り合いなんて全然いない。
佐藤や宮本に勝っていれば満足していた自分がいた。しかし合同合宿の参加は自分の視野を変えた。「◯大の◯◯や×大の××に勝たなければ昇格はない」と言ったように自分の中で本当に必要な力を教えてくれた。慶應ではあり得ないような練習量をこなしている人もいた。本当に視野が広がった。
練習に関してはもっとやるべきだったと今となっては思う。ただ当時は視野が狭いので比較対象が悪く仕方ない面があるように感じる。
最後に
このあとも苦悩の2年生が待っている。雑魚な自分はまだまだ続く。「黄色アレスプの逃げ師」が登場する。zwift練が始まる。自分が部運営、練習全てを取り仕切ることになる(某ケツがほぼ何もしないせいで)。まだまだいろいろあるな。
何にせよクラス3地獄に苦しむ日々はあと一年以上もあるのである。
次回は「苦悩の2年生編」です。お楽しみに。いつ公開かはまだわかりません。
ここまで読んでくれた人がいるのかわかりませんが、読んでくれた人がいるならそれはそれで嬉しいです。
p.s. このブログは進化し続けます。また思ったことがあればどんどん書き足していく所存。
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