山田壮太郎 引退ブログ

2024年度 体育会自転車競技部 主将山田壮太郎です。

引退ブログを書こうと思ってから、はや3か月経過いたしました。レポート等とは異なり、期限というものが明確にはないため、最悪卒業までに書ければいいかなという甘えがございました。とは言え、先延ばしにしてもメリットはないので、年内を目途にして書き上げる事に決めました。

少し書くのが遅くなった理由としては、①先延ばし癖 ②プレッシャー(笑)の二つです。①に関しては、言及する必要すらありません。②については、石井さんを始め僕が知る先輩方が質・量ともに濃密な引退ブログを毎年書いてらっしゃったので、「同じレベルの物を書き上げねば」というプレッシャーを勝手に感じていました。←ちなみに某北海道在住の先輩からは明確なプレッシャーを頂いておりました。

自分は幣部の偉大な先輩方や他の部の幹部の方々と比べると大した文章力や思考力、まとめる力がないという事実は先延ばしにしたところで変わらないので、諦めて“自分らしさ”という魔法の言葉を胸に引退ブログを書く決心をいたしました。

内容としては、以下のテーマごとに振り返って、そのまま文章にできればと思います。ですます調もあえて揃えないかもしれないです。また、自転車競技生活をまとめて振り返ったことがないので、僭越ながら自伝的な形で高校時代の競技生活からしっかり振り返らさせて頂きます。お付き合いいただけると嬉しいです。

  • 自転車との出会い。
  • 高校の時の自転車競技生活について
  • 慶應の体育会について、なぜ大学の部活に入ったか。
  • 部活動を時系列で自分について振り返る。
  • インカレの各種目の振り返り
  • チームに対する、チーム作りに対する想い
  • 自転車、部活が自分に与えてくれたものやこと
  • それぞれへの個別メッセージ(同期、先輩、監督、親等)
  • これからの人生について

自転車との出会い

自転車という存在との出会いと、ロードバイクとの出会いというカテゴリ分けが出来るかなと思います。自転車という存在自体との出会いは、もちろん物心ついた前後くらいだと思います。最初は、姉のおさがりのピンク色の自転車に乗った気がします。あんま覚えてないですが。そのあと、普通の男の子用の自転車を一台挟んで、次にジャイアントのクロスバイクをおばあちゃんに買ってもらいました。もちろん車の免許なんて持ってない年なので、自分のバイクで自分の力だけで、遠くまで行くことが出来るという事自体が本当に嬉しかったし、ワクワクしていた気がします。もともと自分の力で探検するという事が大好きで、その行動範囲を広げてくれたのが自転車だったと思う。このころから友達を誘って放課後に少し遠くまでサイクリングするみたいな、のちにロードバイクに手を伸ばすようなムーブをしていきました。

 ロードバイクとの出会い自体は、クロスバイクだけじゃ満足できなくて、家から2-30分の塾に自転車で通うからという良くわからない理論を押し付け買っていただきました。塾が終わってからは、毎回タイムアタックしていました。最初は25分くらいだったのが、最後は15分切るくらいになっていた気がします。車が遅く感じるくらい。なんかいつも夜風が気持ちよくて爆速で帰っていた。それで、休日やタイミングを見計らって、通っていたサッカーチームの友達でロードバイクに乗っていた子と休日に奥多摩行ったり、一人で鎌倉や羽田に行くようになっていきました。ロードバイクに乗るようになってから、本当に自分の行動範囲や世界が大きく広がって、楽しくて仕方がなかった。そして、ある時テレビでツールを見て、衝撃を受けた。広大な自然の中で自転車を使って、レースをするというスポーツが存在するという事に。その当時、10年間続けたサッカーにモヤモヤした感情をもっていたこともあり、高校に受かったら自転車というスポーツで自分の限界にチャレンジしたいという気持ちが勝手に固まった。周りにもそう言ってた。サッカーチームの同期やコーチは応援してくれたけど、サッカーを辞めるという選択肢に対して正直「なんやあいつ」と思っていたと思う。それでも周りの声が気にならないくらいには、覚悟は決まっていた気がする。それと同時に、やるからには絶対全国レベルで活躍してやると思ってた。フィジカルには自信があったのもあるかもしれない。

高校の時の自転車競技生活について

どこから振り返ればいいのかわかりませんが、とりあえず大学時代もずっと相棒として頑張ってくれたPinarelloのバイクを購入したところから始めます。確か高校の受験が終わってすぐくらいのタイミングだったと思います。今思えば、実績などゼロで、口先だけで自転車競技を始めるという青二才に競技用のロードバイクを買ってくれた親やおばあちゃんには感謝しきれないです。文字通り自分の人生を180度変えてしまうほどのキッカケになりました。高校は都立青山に合格したので、近くにあった「なるしまフレンド」さんで購入しました。「なるしまフレンド」さんでは、バルセロナ五輪の個人ロードに出場し、日本人同種目最高位たる21位で完走された藤野さんに色々ご指導いただきました。全くの未経験だったので、機材の選択から練習方法、ジュニア時代に取り組むべき事等沢山アドバイクをお聞きしました。「なるしまフレンド」さんは本当に名実ともに日本一のショップだと思います。結果的に、このご縁から自転車業界の幅広い方々にお世話になることが出来たと思っています。平日は個人で練習をして、休日は家から20キロほどの青山まで出向いて練習に参加させてもらうという生活を続けていました。多分高1の途中くらいまでだった気がします。しかし、家からの距離の問題や、練習場所の問題から、より家の近いショップにお世話になることになります。

 それが安藤さんの経営されていたBicicletta SHIDOさんです。本来、そのショップでバイクを購入された方限定(基本ほとんどのショップがそういう文化をもっている)だったにもかかわらず、快く受け入れてくださり本当に感謝してもしきれないです。それ以降は、平日は自主練、土日はクラブの練習というスタイルは維持しつつも、強度や距離が明らかに強化されていく事になります。また、平日練もパワーメーターの導入でより定量的に練習を管理するようになったり、SNSを通じて同年代や年上の社会人レーサーの方と練習をするようになり一気に成長した感じになります。ここがキッカケなのか、それとも単純にそういう素質が元からあったのかわかりませんが、環境が無ければ自分で生み出すという事が出来るようになっていった感じがありました。平日練に関しては、大学とは異なり(笑)、普通に週5~6で授業が朝から夕方まであったので、時間の捻出という部分が難しかったです。そのため、かなり無理をした生活リズムを回していたと今になり思います。大事なレースの2週間前くらいのボリュームのある一日を例にあげるとこんな感じです。朝4時に起きて、朝練行って、7時に帰宅して学校行って、15時に塾行って、19時半に帰宅して、20時半から夜練して、23時半に帰宅するという感じ。さすがに頭悪いスケジュールだなと思いますが、気合入っていた日はこれくらい練習していた時もありました。もちろん前日は早く寝ますし、翌日は疲労困憊ですが。(笑)学校でもほとんど寝ていた気がする。もちろん学業成績はクラス最下位で、学年でも最底辺でした。今思えば、それくらい振り切れるのも能力かなと思います。(言い訳)一方で、自分で生活リズムをルーティン化することや、組み立てるというスタイルが身に付いたかなと思います。ここは、部活動ではなく個人で活動していたからこそ成長出来た分野かもしれないです。

 そんなこんなで、実業団レース(名前こそ実業団だが、世間一般でいう実業団のレベルとは異なり、ほぼアマチュア)に出場するようになります。大会ごとに成長して、とにかく自転車レースというスポーツが楽しくて本当に全部が新鮮でした。たしか高2の秋頃には、E1という上位カテゴリで入賞することが出来て、自信がつきました。その時の上位メンバーは紺野元汰さん、中里仁さん、中川さん等で、鳥倉さん、石井さんや武井さんよりも上位で着に絡めた事が非常に嬉しかったことを覚えています。自分としても、明らかに実力が上がって、それだけでなくコンディションも上がっていると実感していました。その後、高校時代の一番ピーキングがうまくいったと今でも思うツールド沖縄ジュニア国際140kmで6位に入ります。1位は津田君で、2位は現在ワールドツアーで走るオーストラリアの子で、ほかにもオランダ人がいたり、タイのナショナルチームの人がいたり、すごくエキサイトなレースでした。国際レースなだけあって、外国人と片言の英語でコミュニケーションを取りながら、ゴールを目指すという経験が本当にワクワクしたことを今でも覚えています。確かレース時間は5時間弱で、はげるかと思いました。関係ないですが、レース後会場で聞いたカーリーレイジェプセンのI really like youがめちゃくちゃ記憶に残っています。それこそそれまでスポーツの大会に参加するために飛行機に乗ることなんてあんまなかったので、行動範囲が広がるという意味でも自転車競技は楽しかったです。

 そして以上の結果をもって、ジュニア年代のロードナショナルチームの選考に申し込むことになります。なんで申し込んだかは、正直全く覚えてないのですが、なんか申し込んでいたみたいです。自分の意志ではあったと思います。それで、伊豆で選考合宿に参加して、無事に合格を頂きました。選考合宿は、同年代のトップクラスの選手が全国から参加していました。各地のゴリゴリの方言を聞くのが新鮮でした。全くバックグラウンドが異なる選手ばかりで、それもとても新鮮でした。自分は競技2年くらいでしたが、小さい頃から競技に取り組んでいる人や、高校自体にスポーツ推薦で入学している人等がいました。選考のプロセスも、あんま詳しく書かない方がいいのかもしれませんが、数値測定や、競争方式のモノもあり、すべてこれまでに経験した事がないくらいきつくて、楽しかったです。(書いていて思いますが、ほぼ小学生の感想文ですね(笑)。たぶん小さい頃にあんまり本を読むのが好きではなかったので、語彙力や言語化能力が低いのだと思います。)話を戻しますが、この時仲良くなったメンバーと今でも繋がりがあるのは、感慨深いですし、本当に嬉しいことだなと。

 合格後は、ナショナルチームのメンバーとして時々合宿に参加しました。沖縄での合宿は、学校からは公欠を認めて頂いて、お国のお金で参加するという、これまでにない経験でした。その分合宿のきつさは本当に異次元で、まず空港から宿まで80キロくらい自走させられました。普通に軽く走るのかなと思ったら、某選手が普通に先頭を50キロくらいで牽き始めてすべてを悟りました。そして沖縄の北部は信号が少ないこともあって本当に休めない。後ろにはサポートカーがいて、さぼれない。マジで、涙でそうだった。早く帰りたいと思いながら毎日過ごしてましたね。

そんなこんなで、順調に強くなっていた矢先、年明けに膝を怪我してしまい、満足に練習できない状況が半年ほど続くことになります。ナショナルに選出されたことで、強くならないといけないというプレッシャーで急激に練習量を増やし、ジュニアの身体では耐えきれなかった形になりました。それでも練習しなきゃいけないという気持ちで、本当に悪循環に陥りました。自転車が嫌いになってきて、辞めたいと思うようになりました。しかし、その際に沢山の方にアドバイスを頂き、好きで始めたのだから頑張ろうという踏ん切りをつけることが出来ました。特に、土井選手が気にかけてくださったり、現シマノの香山さんには、たくさん心配して頂きました。その節はありがとうございました。とはいってもコンディションが下がっていたので、日本代表として海外遠征に参加することは叶いませんでした。そこは今でも心残りです。

夏前には怪我も飼いならせるようになり、2019年の全日本選手権に出場し、16位で完走し、ジュニアとしては一度引退することになります。元々、某六大からスポーツ推薦の話を頂いて話を進めていたのですが、まさかの学業成績が要件を満たしていないという事で受けられないという事になり、一般受験せざるを得ないことになりました。もちろん学業成績では下位でしたが、通っていた高校はそれなりの高校だったので、そこを加味してくれないのは、意味が分からないと当時は思いました。他の高校の生徒よりは相対的には勉強も少なからずやってきたのにも関わらず、学業成績という偏差値的には下の高校のほうが有利な指標を用いられたことが許せなかったです。もちろんそこを加味しだすと、大学側としては不正に繋がったりするので、制度上どうしようもないとは今は思います。それゆえ、浪人も含めて1年半ほど自転車には全く乗らないで勉強だけに集中する日々が続くことになります。

なぜ大学の部活に入ったか、慶應の体育会について。

 まず前者については、これまでの人生で部活動という形でスポーツに取り組んだ経験がほとんどなかったので、そういった形で取り組みたかったというのがあります。小中はクラブチームでサッカーに取り組んで、高校は実業団(ショップのチーム)で自転車競技に取り組んでいました。そのため、自分の中でいつもスポーツというのは学校という機関とは別の枠組みに存在するものという認識でした。外部で活動するのもメリットはたくさんあると思いますが、やはり授業の前後に練習が出来たり、学校が公認して、スムーズにスポーツに取り組める環境というのは、いいなと思っていた節がありました。

 後者については、しっかり理由があります。まず前の章で触れたようにスポーツ推薦に不合格になった経緯から、少なからず文武両道で生きてきたというアイデンティティを強固なものにしたいという気持ちが強くなっていました。それは、気持ち的にもですが、経歴として見たときに慶應の体育会であれば、スポーツ推薦がないためそれが確立できると考えました。(一部例外はあります。)実際に慶應義塾体育会に入って、ここまで生活してきて、当部やそれ以外の部活を見ても、その通りだと思います。もちろん、スポーツに比べて勉強のほうはだいぶ見劣りするかもしれないですが、それでも在学中に英語のインテンシブコースで普通の語学のクラスの倍の授業を受けたり、4年の春学期までで卒業要件を満たし147単位を取得したことを考えると少なくても多少は頑張ったと思います。あと言わずもがな大前さん、川野、西村さん、の存在は大きかったです。認知という部分で彼らの活躍がなかれば選択肢として入ってこなかったと思います。特に川野の存在は大きくて、高校の時に知り合って合宿を一緒にするくらいの仲で、尊敬できる人が既に存在しているというのは、選択肢→決定する上でとても大きかったかなと思います。

 そして「慶應義塾體育會」に入ってどうだったかということですが、これまでの人生の選択の中でもトップクラスに自信をもって良かったと言える選択でした。それじゃ、なんで?と思われる方がいると思います。それは、入れないとわからないというのが答えです。しかし、少しでも言語化すると、僕なりの解釈ではありますが、

自分が頑張りたいと思う理由になりえる、ということかなと思います。それは、入学前かもしれないです。もちろん部活動中でもそうです。はたまた卒業してからかもしれないです。自分の場合は、慶應義塾体育会に入るために受験勉強を続けることが出来ました。慶應義塾体育会としてのプライドをもっていたからこそ早慶戦で全力で戦えました。そして神宮の時だって、個人戦の時だって、インカレの時だって全力を尽くせました。そのプライドが無ければ、出せなかったようなパワーをもらえる、そんな存在かなと思います。そして勉強においてやる気が起きない時でも少なからず文武両道をやり通すんだ、という気持ちが湧いてきて、レジュメ1枚は進みます。おそらく卒業後だって、同様にして、人生の各フェーズにおいて力をくれる存在になるんだと思います。そんな存在が慶應義塾体育会なのかなと思います。上記以外にも、塾長招待会であったり、小泉体育賞、体育会本部、応援部、他の体育会の存在も言うまでもなく非常に大きいと思います。そういう機会や存在、脈々と受け継がれるプリンシプルがあるからこそ、もっと頑張りたいと思えるんだと思います。

 

部活を時系列で自分について振り返る。

やっと大学時代の振り返りに入りました。(笑)ここまで読んでくださった方はお疲れ様です。まだここから長いです。

1年生

入部したのは確か普通に4月くらいだったと思う。経験者として、自転車は持っていたので、某場所で面談して、説明を受けた。懐かしい。そこから六川等は未経験者としていろいろ外練に出るまで部室で練習していたと思うが、自分はそれがなかったので、サイクリングしながら、受験で鈍った身体を徐々に起こしていった。高校の時に膝を怪我していたので、そこが心配で、練習量を増やせずにいた。なんかごちゃごちゃ言いながら、あんまり練習できていなかったので、そこは後悔。結果として膝の怪我は悪化しなかったので良かったが、もう少し積極的に練習しておけばよかった。先輩としても正直接しづらかったと思う。自分が上級生の時に、下級生に元ナショナルとか入ってきたら、あんまり強く言えない気がする。ましてや浪人生とか。本当に厄介な存在だったと思います。そんなこんなで、割と好きに練習させてもらっていた。7月の白馬で初めての学連レースに出場して、クラス2昇格。インカレ出場権を獲得した。完全に経験者ボーナス。正直、努力して昇格したとは言えなかったと思う。結果的にインカレのロードにはチームミーティングで部内選考落ち。今思うとそりゃそうだろと思う。当時は、大丈夫ですとかイキっていた気がする。全然大丈夫じゃないし、体育会たるものをわかってないし、部活なのだからチームスポーツという点もわかってない。結果的に、そこで体育会とは、チームプレーとは、という要素について考えるようになったと思う。もちろん自分は人より自己主張が強いという点は変わらないかもしれないが。夏以降は完全に身体は高校の時と同じレベルには戻って、普通に活動していた。石井さんの紹介で多摩地域の学連の人とも練習できたりして、強度も確保していった。一方でトラックのほうは、今ほどマストでやらないといけないみたいな感じではなくて、そこまでバンクには入ってなかった。短距離と中長距離でしっかり分かれていたのもあるかもしれない。それゆえ、1kmTTも1分20秒とかだった。2年の後半に測るまで。一年の冬はコンディションもあがってきて、川島町でクラス1昇格して、神宮では6位&学校対抗初優勝という結果を残せて、徐々に板についてきた感はあった。神宮は、自分以上に先輩を始めチームのメンバーが喜んでくれて、頑張った甲斐があったと思った。あとこの時期の合宿とか全体練が本当に楽しくて。もちろん朝起きるの早いし、冬のベース練の時期なので練習時間も長いし、疲れるけれど。でも、一体感があって、レストでコンビニで飯食べる時間とかすごい好きだった。多分、同じ練習してたメンバーならわかってくれるはずです。(笑)パワー的にも20分335Wくらい出て、マックスも1500W超えてて、クリテ選手としては割といい感じだったと思う。そんな感じで調子良くなってきたなと思ってたら、練習行く途中に歩行者とぶつかってしまい救急車で運ばれて、肩が外れかけた。ぎり耐えたけど、全治1-2か月くらい。普通にサイクリングロードで爆走していたのが悪くて、その後何回か直接謝罪しに行った。優しい方で良かった。以後安全意識がかなり向上した。サイクリングロードで歩行者を抜くときは、1.5メートル以上開けるのマスト。家は早く出る。事故ってからは、1か月ほど家に引きこもった。やる気が出なくて、嫌になった。虚無はもう勘弁。

 2年生

2年生は、プライドをへし折られた年度だった。学生クリテでは、途中で落車しながらも4位入賞して、初の全国入賞が出来ました。しかし、個人ロード、全日本ロードではコンディションを上げていけたのにもかかわらず、勝負所まで残ることが出来ずにどちらもDNFだった。正直、広島の全日本ロードで心が一度折れた。これは、あんまり表立って話してこなかったけど、自分の気持ちを整理するためにも、認める。完全に、俺にはロードが向いていないと思った。というか、限界が見えた気がした。もちろん、今思えばこういう時に頑張り続けられる人が結果を出せる人だと思うし、ロード一本で続けていたら、結果が出ていた可能性も否めない。けど、大学で日本一を取るという目標を達成するには、あまりにハードルが高すぎると思ってしまった。だからこそロードレースで優勝できる人は無茶苦茶カッコいいし、尊敬できる。その後のバンク練で、1kmTTを測ったら、人生3回目にもかかわらず1分6秒が出て、完全に才能があると思ってしまった。そして、チームで短距離メンバーが過疎ってたこともあり、完全にこのままロードで勝負するよりも、自分が短距離に移行する方がチームの総和としては大きくなると思って、そうしようと思った。そして、大学で日本一という目標を達成するには、トラック短中距離に専念する方が実現可能性が高いと考えた。この判断をしたからこそ新しく見えた景色や出会えたライバルがいる。一方で、大好きだったロードレースから距離を置くことになってしまったことには、今でも後悔している。多分、川野とか西村さん、岳さんとかは、当時はあんまり直接的にそのことについて、言わないでおいてくださったと思う。しかし、今書いてきたような自分の気持ちだったり、考えは見え透いていたと思う。

 そのようなフワフワした奴にインカレに出る資格はないと神様が言うかのように、鹿児島でのインカレはコロナに感染して全種目DNS。せっかく東京で感染対策して、2週間前から現地入りして、練習していたのにもかかわらず無念だった。特に杉岡さん、内田さん、多賀谷さん等短距離班の方とレースに出られないことが本当に申し訳なかった。ホテルで療養しながら、スマホでインカレの中継を見ている時に、すごく悔しかった。その後は、早慶戦に向けてひたすらバンク練に入った。身体作りも並行して行い、80キロ近くにした。明らかに短距離種目のタイムも向上した。そして早慶戦では、ケイリンを始め、勝ち越しに大きく貢献できた。21年ぶりに勝利した。宇佐美監督に少しは恩返し出来た気がした。あと、だいぶこの時期になると自分が進めたチームジャージの刷新も浸透していた感じがした。

 3年生

短距離に専念すると決めたらなら、結果を出すと腹を括った年度。春先まではウエイトに集中して身体作り。元々食べるのは不得意な方だったので、本当に苦労した。多分2年から3年にかけてのオフシーズンは食べ過ぎて、吐いて、人生で初めて血が出た。こういう経験なかったから、驚いたと共に、それだけ頑張れていることが嬉しかった。アルゴンも導入した。あとは、自分のパフォーマンス次第。春先からは、シーズンインに向けて有酸素も混ぜながら身体のキレを求めていった。そして4月の松本遠征では、ハロンと一キロでA基準獲得して、ケイリンでは優勝、TSPでは慶應の歴代記録を更新出来た。一方で、東日本トラックでは、ケイリンというレースの戦術面での課題が見つかり、結果は出なかった。しかし、ポテンシャル的には通用すると感じた。その後の全学クリテでは優勝を目指して走ったが、またもや4位だった。最後カツヤ君を捲り切れなかった。やっぱ日本一は見えているより何段階も遠いと感じた。個人戦前の境川バンクで焼肉ハロンが爆誕する。焼肉ハロンとは:ハロンで10.8を切ったら先輩に焼肉を奢っていただけるという悪魔の契約である。そして、焼肉につられて、境川で10.5をたたき出してしまう。完全に強くなっている実感があった。そしてその後の個人戦。種目はもちろんケイリン。戦術面は杉岡さんを始め先輩方にラインで質問攻めを行い、自分でも対戦相手のデータをNotionにまとめて、出走の組み合わせごとに、想定されるレース展開をパターンごとに書き出して、自分の成績が最大化できるような走り方を考えた。結果として、運にも味方してもらって、3位。人生で初めての全国表彰台だった。少し報われた気がした。短距離は割と中長に比べて才能ゲーの要素が強く、牙城を崩すのは難しいと思っていたが、結果が出てびっくりした。そしてこの大会をきっかけに明らかに他大の選手に一目置いてもらえるようになった。僭越ながら中長においては、割と知名度がある方だったが、短距離においても認知してもらえるようになった。このおかげで、他大の短距離選手と一緒に練習させてもらえるようになったりして、より自分が成長する上で大きなきっかけになった事は間違いないと思う。そしてやってきたインカレ。去年のインカレ終わった直後には、来年のインカレこれ以上に熱入るかなと不安になるくらいには燃え尽きたインカレだった。結局、自分が4年のインカレのほうが熱入りましたが。(笑)でも、それだけ2023年のインカレは濃くて、忘れられない。それは一個上の代は言うまでもなく、後輩もそうだと思う。特に団抜き。もう忘れないって。去年の分はブログに書いたので、気持ちだけ書くと、集中しすぎて熱っぽくなるし、走った記憶は集中しすぎて覚えてないし、本当に一瞬だった。大会当日も充実していたが、やはりそれまでチップに毎回お金も時間も費やして通って練習したからこそ、充実していて、いろんな感情が生まれるんだと思う。慶應歴代記録を団抜きという花形種目で更新出来たことがとても嬉しかった。同時に、順位決定戦に先輩方3人を連れていけなかったのが申し訳なかった。ケイリンでは、7位入賞してホッとしたが、目標を高く持たないと、成果は大きくならないという事を痛感した。目標以上の成果が手に入ることなんて稀で、ほとんどの場合は目標に届かない。それなら目標はデカければデカいほど良い。とはいっても、あまりに現実的ではない目標、もう少し言語化すると、本気で達成したいと思ってそれに迎える目標の中で一番大きい目標でなければそれはただのファッション目標になってしまう。そこは忘れてはいけない。だから結局のところ目標のストレッチ度120%という形に落ち着くのかもしれない。そういう背景は覚えておきたいよね。3年の冬は、六大、早慶戦、国際トラックと連戦した。早慶戦はやはりチーム戦だという事を痛感した。強い選手がポツポツいたとしてもダメで、やはり団体種目で勝利するか、ほぼ僅差という形までもっていかないと勝利はできない。主将として出場した全種目で優勝できなかったことは申し訳なかった。自転車の早慶戦はオフシーズン中に行わるため、コンディションが上がっていないことが多いかもしれないが、この時期に成績を出せれば間違いなく次のシーズンは戦えるということなので、後輩たちは早慶戦に全力投球してほしい。国際トラックでは、7位入賞が出来たが、海外選手や学生トップ選手と比較するとフィジカルの差が如実に感じられ、翌シーズンで結果を出すためには更なるフィジカルがマストであると痛感した。やはりインカレ決勝で勝負するとなると10.3、自分から勝負していくとなると10フラが必要になると感じた。この年の納会では、OBOGの方々を招待して、2023年度の部活の現状についてお話したり、これまで、そして2024年度以降の部活のことについても幅広い年代の先輩方と意見交換出来たのは非常に貴重かつ有意義だった。そして、忘れられないのは神宮。本当に辛かった。レース内容は言うまでもなく、主将として、不甲斐ない走りしかできなかったことが本当に申し訳なかった。情けなさ過ぎて、本当にどっかに消えたくなった。明らかにキャパオーバーしていて、ぶっ壊れるかと思った。神宮が終わった後、休学しようと思った。親にも相談した。もう無理だと。だけど、意外と親がスパルタで、やるしかないでしょ、と何度も言われ、意外とこれが逆に効いた。やるしかないと。やることにした。そしたら、なんか2週間後には就活終わってた。意外と耐えてみるもんやなと思いました。

ラストイヤー(4年生)

 就活による離脱は避けられたものの、人生で1番えぐい風邪を食らってダウンしたのが4月。もちろんコンディションは下がって全学クリテは完走どまり。ここらへんで湘南大学の某後輩に山田さんのラストイヤーこんなんでいいんですか的な事を言われて、そっから完全に切り替えられた。某君には感謝してるよ。そっから淡々と積み重ねて、1か月後くらいにはウエイトの重量も過去最高くらいになって、身体のキレも戻った。でも個人戦では決勝には上がれなかった。順位決定戦では、またもや7位にはなれたが、目標を上げてしまったからには、去年のインカレのようにガッツポーズはもう出なかった。それと同時に残されたチャンスはインカレのみとなってしまった。もうここら辺は風邪が怖すぎてマスクはもちろんするし、電車乗ったときは、乗り換えの駅ごとに手洗いうがいを徹底してた。普通に今思うと異常。インカレに出られたからオールオッケーではあるが。例年通りの合宿では、ひたすら強度とボリュームのそれぞれの観点を意識しながら。特にずっと一緒にメニューに取り組んでくれた健三と寺田には本当に感謝している。二人がいなかったら質の高いメニューをできなかった。同じように俺がいたから二人が成長出来たと少しでも思ってくれてたら嬉しい。直前のチップでの練習では250ハロンの自己ベストも更新して、かなり自信を持った状態でインカレ本番を迎える事が出来た。

インカレ各種目振り返り

―ロードー

ロードは開催が延期になってから短距離から完全にロード練だけをして臨んだ。出場枠的に出させてもらえることになった。正直出るだけになってしまったが、本当の最後は自転車始めたきっかけであるロードで引退できて良かった。高校生の自分が最後のインカレロードのリザルトがDNFだと知ったらびっくりするだろうな。それも人生。

―スプリント(予選)ー

 結果は予選敗退。公式タイムとしてはベストで、去年のインカレのタイムよりは0.2秒程短縮した。この種目はタイム・その実現のためのフィジカルがマストで求められる。つまり戦術などの面は予選通過においては通用しない。そのため、敗因は言うまでもなくフィジカル不足。もちろんハロンのタイムを出すためのバンクの走り方やおろすラインどり、自身のもがける射程距離等はいうまでもなく把握がマストであるが、他の競技よりもその様な要素は天井があると思う。それゆえ、その要素を満たしたら、あとは、フィジカル勝負になる。これまでのブログに沢山ハロンについては書いてあるので、後輩等はそれを参考にしてほしい。あとはラインの短距離班の会話。

―TSP―

第9位 慶應義塾大学 48.808

タイムとしては、昨年のインカレでのタイムを更新することが出来た。しかし、入賞(8位)の壁は想定通り高かった。2走としては、2つの点で成長をすることが出来た。1つはスタンのスピードである。いくら2走のトップスピードが速かったとしても、1走から2走へ走順が変わる際のタイムロスが生じていては、タイムとしては相殺されてしまうからだ。そのため、トップスピードを追い求めることは前提としながらも、1走に1周で追いつき切る力を追求した。もう一つは、いうまでもなくトップスピードの部分である。TSPは、2走が1走に追いつくことも重要であるが、2走がトップスピードを上げきり、その速度を3走へと引き継ぐことで、タイムが短縮されるからである。そのため、定量的には、250バンクの半周のラップタイムで6秒台に入ることが入賞に向けた一つの指標であると考えてきた。本番ではラップタイムとして6秒台に入ることは出来た。一方で、チーム全体としてはその速度を維持することが出来ず後半失速してしまい、入賞には届かなかった。また、速度を維持することが出来た場合でも、8位相当のタイムには届かなかったため、スタンを含めたチーム全体としての速度の向上と、2,3走のどちらかが半周6.75程度のラップタイムを刻むことが求められていくと強く感じた。寺田はインカレ直前にスタンのタイムを1秒短縮し、本番も極上スタンをしてくれてありがとう。最高でした。健三も俺のスタン、2走のトップスピードについてきてくれてありがとう。やっぱりTSPは面白いけど、怖い。失敗が許されないから。でもその緊張があるからこそ面白い。あのスタート前の緊張の中で、ほか2人も緊張してるんだろうなとか思ったりするのも懐かしい。やっぱ自転車競技おもしろい。短距離班が少なくなってるけど、食わず嫌いせずにみんなやってね!

―ケイリンー

6位入賞

 本命のケイリン。目標は優勝だった。もちろんこれまで出場したレースを振り返っても相当高い目標であったことは理解していた。目標を達成するにあたって大きく分けて2つのアプローチを行った。一つは、絶対的なパワー・スピードの向上である。昨年から準決勝以上のレースになると、途端に自分のレースが出来なくなるという課題感を感じていた。また、国際トラックカップにおいても他国の選手や他大のトップ選手とは、仕掛ける時の加速力の差を常に痛感していた。とにかくトップスピードがないと他人任せのレースになるだけでなく、最後着順争いになった際に粘り切る・伸び切るという事が出来なくなる。そのため、練習からとにかくトップスピードを鍛える練習を重点的に取り組んだ。具体的には、F100や重ギアでのトレーニングそれにあたる。実際に、夏の美鈴湖合宿ではF100で5.2という自己ベストを更新することが出来た。もう一つは、戦略的アプローチだ。フィジカル面での強化は言うまでもないが、ケイリンという競技は戦略面も非常に大きな割合を占めている。そこがスプリントや他の種目に比べて面白いし、勝機が相対的に出場する多くの選手に与えられる点である。正確には戦略面をマスターしてこそ、フィジカルの勝負に持ち込むことが出来るという言い方が適切と考える。そのため、各選手の持ちタイムや走り方の癖をまとめ、その情報を元に番手ごとパターンを考えてレースを迎えるという事を行った。予選は、京産の田村君と二人抜けで上がれると思っていたし、実際にそうなった。しかし想定外だったのが、田村君のスピードについていく事だけに集中しすぎて、コーナーでダンシングを続けてしまい、落車しそうになった。それで番手からちぎれて、あやうく予選落ちするところだった。普通に大丈夫だったが。だいぶヒヤッとした。準決勝は、井出君の番手で行こうとしたが、横溝君に内側をだいぶ強引にとられて、はじかれた感じになった。最終的には彼は失格になったから納得できたが、だいぶ走りとしては強気だった。自分として反省点をあげるとしたら井出君の左側にホイールを刺しておくべきだったかもしれない。井出君を捲るために右側にホイールを刺すよりは、決勝あがるためであれば、左にさして内側を強固に守ってよかったかもしれない。最後、絶対にあきらめたくなくて、もがき切った。ちょっと諦めが悪いくらいだったかもしれないが、その気持ちがあったから結果的に決勝に上がれた。執念isベスト。そして決勝。遂に乗れたインカレケイリン決勝。牽いたのは、6番車。持ちタイムで並べると、5番の細川君に引っ張ってもらうのも現実的ではない。それゆえ、ペーサー離脱直後に前に上がって、その後上がってきた人の番手勝負をしようと考えた。フィジカル的にはどう動いても厳しかったが、まだ可能性が高いのはこの走り方だなと思った。スタートしてからペーサー離脱まで、あの歓声の中、集中は最大限していたが、なぜか冷静な自分もいた。

「今自分はインカレのケイリンの決勝を走ってるんだな」とか「あと何周でペーサー離脱か」とか。いまでも景色が鮮明に頭に残ってる。でも、自分が動き出すタイミングから最後ゴールするまでの記憶はあんまりない。それだけその瞬間をおもっきり生きていたんだと思う。気づいたら終わっていて、当たり前だけどロードレースとは比べ物にならないくらい一瞬だった。どっちもそれぞれの良さがあるけど、ケイリンの一瞬にすべてに詰まっている感じが大好きだ。また走れるなら走りたい。叶わないけど。結果としては、田村君のダッシュにはつけずに、ずるずると交代して6位。それでも最後までもがき切った。最後は、感謝の気持ちでもがいてた気がする。それで、バックストレートを走って戻る時に、宇佐美さんがいらっしゃって、言葉を交わさずとも「よくやった。やりきったな。」とおっしゃているかのように拍手してくださっているのが見えて、本当にありがとうございました、という感情でいっぱいだった。六川もホルダーありがとう。

 

チームに対する、チーム作りに対する想い

 まずは頼りない主将だったと思うけど、ついてきてくれた部員のみんなには本当に感謝しています。正直な所、自分がみんなを支えるというよりは、ありきたりな言葉かもしれないけど支えられていたと思います。支えられていたというと綺麗な言葉だけど、だいぶ持ち上げてもらってたくらいだと思います。主将が頼りないと、同期や下の代がしっかりしてくるというか、一個下の代、特に主務の平石と副将の阿部にはだいぶ力から借りました。西田、六川は数少なすぎる同期として、自分の手が届かない部分や、自分の力じゃどうしようもない部分に助け舟を出してくれてありがとう。

 チーム作りとして、自分は石井さんひいては石井さんの前の代から続く自転車部の独特の雰囲気が大好きでした。だからこそ、そのような雰囲気は引き継ぎながらも、岳さんの代のメリハリのある感じも引き継いで、そのうえで、慶應義塾体育会として他の部活も見て、同じように体育会という部分、エッセンスは醸成していきたいと思ってました。正直うちの部活は他の部活よりは体育会感が良くも悪くも弱いと思います。良い部分はそのままで、悪い部分は積極的に変えようとしました。でもこれが難しいんですね。主将たるもの、当たり前のように自分の事は出来ていないといけない。そして、人を指摘する、人にアドバイスをするには、自分が他の模範になるような形で部活動、私生活を過ごす必要があります。主将を務めて思ったことは、本当に主将の影響力は大きいなと。良くも悪くも全て見られていると思います。本当に全部。だからこそ、そういう意識をもって、部活の運営もそうですし、もがきですら取り組む必要がある。あの先輩、もがきの時ゴールの少し前で力抜いているなとか。だからこそ、ゴールを超えるまでもがき切るのは徹底する。話がまとまっていないですが、そういう意味においては、今年度の成績の責任は僕にあります。インカレでの二桁得点が未達であること、主将として対抗得点に大きく貢献できなかったこと、大変申し訳ないです。一方で、インカレ出場権を獲得するという目標のほうについては、2年生を中心に成長、出場権を獲得してくれて非常に嬉しく、心強く思います。

自転車、部活が自分に与えてくれたものやこと

 まず自転車が与えてくれたこと、沢山あり過ぎて書き切れません。強いて挙げるとしたら、可能性かなと思います。だいぶ前半にも書きましたが、サッカーで壁にぶつかったときに、新しい世界を見せてくれました。そして、サッカーを続けていたら見えなかった景色、出会えなかった人たち、体験できなかった経験。本当に自転車って自転車にすぎないんですけど、単なる自転車で人生が変わってしまいました。自転車をやっていなかったら、慶應にも入れてなかった。チャリ部のみんなにもあえてなかった。もう人生は運命です。本当に360度人生が変わりました。間違えました360度だともとに戻るので、180度です。

 自転車競技部が自分に与えてくれたこともあり過ぎて、書き切れません。直感で頭に浮かんできたこととして、「相手の立場になって考えてみる」ことですかね。山田これ出来てなくね?と思う方が多いと思います。僕もそう思います。しかし昔の自分はもっとこれが出来なかったんです。今と比較にならないくらい。昔に比べると部活に入ってから、いったん相手の立場だったらどうだろうと考えることが増えたなと思います。練習中、MTG中、レース前、レース後、オフの期間、プライベートな時間等。自分の立場だったら、こうするし、こうする方が効率的、合理的と思う場面がたくさんあります。しかしそれってあくまでも自分の立場でしかなくて、自分がこれまで経験してきたことや考えてきたことは限界がある。そこで、いったん自分から離れて、相手の立場や状況に思いを巡らせてみる。そうすると、そういう考えもある、それならそうするか、等納得出来たり、新しい発見が出来る事があります。こんな感じに少しでも相手の立場になったらどうだろうか、という事を考えることが出来るようにしてくれたかなと思います。昔から自分勝手で、自分中心な僕ですが、少しだけ変われたかなと思ってます。

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それぞれへの個別メッセージ(同期、先輩、後輩、監督、親等)

―同期へー

まず六川。お世話になり過ぎて、逆に改まって書くと、違和感しかない。最近新たに発見した六川の強みはアジ釣りが上手いこと。関係なさすぎる。自分は自転車経験者で、六川は未経験者で、だいぶ接しづらかったと思うけど、ついてきてくれてありがとう。外部の自分からしたら六川から慶應たるものをご教授していただき少しは慶應について詳しくなりました。一番の思い出は、六川がクラス2昇格した時。泣いちゃった。一生よろしく。

西田。4年間ありがとう。俺とタイプが全て反対すぎて、嚙み合わないことがだいぶ多かった気がするけど、ついてきてくれてありがとう。含む関係の仕事はもちろん、部活のムードメーカーとして大会ごとに盛り上げてくれてありがとう。また同期会しよう。

中野。中野が辞めてから同期が少なくて寂しいです。とりまいろいろ書きたいけど、落ち着いたら飲み行くぞ。

―先輩へ―

石井さんの代。生意気な一年生ですみませんでした。生意気な後輩で居れるくらいすごく心地の良い先輩方でした。先輩方が引退されてからもいろんな形で部に関わってくださり本当にありがたかったです。新年会でお会いできることを楽しみにしています。

多賀谷さんの代。生意気な二年生ですみませんでした。この代も本当に居心地がよくて、でも少し厳しくて、ちょくちょくご指導いただきました。締めるところは締めるというメリハリ好きでした。そして、短距離に移行してからは、沢山アドバイスして頂きありがとうございました。

岳さんの代。偉大な代。実質同期の代。2001年の代。生意気な3年生ですみませんでした。生まれた年的に生意気にならざるを得ませんでした。同い年なのに、学年としては一個上で、精神年齢的には3歳くらい上でした。本当に全部リスペクトしていて、運営や競技への姿勢等、すべて見習わさせて頂きました。特に岳さん。引退後も頻繁に連絡をくださって、長電話もしましたね♡。岳さんに主将力、人間力、身長的に追いつきたかったですけど、全然無理でした。ぎりぎりではなく全然無理でした。尊敬してます。

―後輩へー

阿部の代。しっかりもの集団のみんな。これからいろんな制約が生まれると思うけど、そういう時こそ、お互いの弱さを曝け出して、お互いに助け合う時だよ。結果が出る人、そうでない人いると思うけど、みんな頑張っているのはわかってる。阿部を中心に、体育会として、結果に貪欲になってほしい。苦しいことの方がこの先多いと思うけど、応援してます。辛い時は相談でも飯でも、飲みでもつれてくからね。連絡待ってます。

長谷川の代。ホープ集団だね。結果も出てきていて、心配してないです。時々中谷筆頭に我が先行するメンバーもいると思うけど、その先行もうまい方向に持ってけると思います。みんなが四年生の時のインカレはどんなんだろう。楽しみ。

高島(漢字ごめん)の代。この代もしっかり者だね。意外と4年間って長いようで短くて長くて短いから、焦る必要はないけど、成長には貪欲に。結果は早く出ればそれだけいいと思う。先輩たちの胸を借りて、羽ばたいてくれ!

―宇佐美監督へー

寛大な心で部員を包んでくださって本当にありがとうございます。生意気な自分に対しても、その生意気ささえも正しい方向に常に導いてくださりました。入部した時から考えうる理想の成績を宇佐美さんにお届けできなかった気がしますが、それでも早慶戦で勝利したこと、インカレケイリン決勝を慶應ジャージで走ったこと、それで少しでも恩返し出来たら幸いです。本当にありがとうございました。

―両親・ババへー

ここまで自分を連れてきてくれてありがとうございました。ここまでの心理的、経済的サポートがなければ、活躍できませんでした。常に自分の選択に対して後押しをしてくださりありがとうございます。まだまだ親・おばあちゃん孝行は足りてないと思います。これからもしていきます。

これからの人生

 最後は手短に。競輪選手にはなりません。(笑) 世界を舞台に、幸せを増やします!

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