思い返せば本当にいろんな人と出会い、お世話になってきた。4年間は長いようで短い。いや短いようで長い。
4年目になると学連全体の顔ぶれも大きく変わる、大学内でもそうだ。もう蛭川さんを知る人間はほぼいない。小野さんや逸見さん、大藤さん、宮本さんを知る人間もほぼいない。同期で言えば原が消え、下田もいなくなった。
ずっと一緒に走ってきた熊谷さん、小林さんはもう社会人だ。
逆に義塾高校のガキたちがもう大学3年だ。
そして気づけば強いと知られていた山田壮太郎が後輩になっている。社会人レーサーの方々と知り合いになるほど自転車を通した輪が広がった。
何が言いたいかというと4年間大学内外含めいろんな人と出会い、共に成長し、時にいなくなりながらここまできた。その中でいろんな考え方、価値観と触れ合いたくさんのことを学んできた。この経験は4年間の競技人生の宝の一つである。
正直、541回目となるこのブログで何を書けばいいのかわからない。書きたいことは山ほどある気がするが、それを全て言語化出来る自信もないし、全て書き切れるほど単純なものでもない。
とりあえず最後のインカレロードを振り返ろう。
8/22 インカレロードレース 11/25周DNF 72km TSS152 NP252 平均心拍数172
どう振り返るのが正しいのかわからない。
今思うのは10周目の心臓破りにかけての走り方が悪かった。おそらくあの時のペースアップにうまく対応することができていれば、少なくとも5周は延命できていた気がする。
準備から振り返る。
朝しっかり目覚め、カフェインをとり群馬へ向かい好きな音楽聴きながらアップ。試走時は雨が降っていたが、レインウェア等、雨への対応もしっかり行っていたこともあり、あまり影響を受けずにスタートを迎えることができた。
この時もう少しやっておけば良かったことは心肺を痛めること。出走まであまり時間がなかったこともありアップ時にあまり心拍数を上げられなかった(1〜2周目がいいアップになった)。
スタート位置は3列目ぐらいの外側。自分の中ではスタート位置は外側と決めている。落車を回避しやすいし、前にも出やすい。
スタートしてからはスルスル上がり最前列。ここまではいつも通り。
序盤は落車多発のカオスな状態だったにも関わらず、ほぼ落車に遭遇していないのは前線で張っていたことが功を奏したのだろう。
その後は下りで位置をあげ、登りをできるだけ下りの惰性を活かして登る省エネ走行で周回をこなす。
正直、ここまでは余裕だった。西村が逃げてくれたおかげで集団のペースはサイクリングになり心臓破りも300wで先頭についていける状態だった。
問題は10周目だ。集団が逃げを吸収したのか集団のペースが速くなり、心臓破りの手前から踏む事態に。
ここで自分の心肺は黄色信号。心臓破りで先頭はさらにペースアップ。
ここで自分は馬鹿だった。心肺に余裕がないのに先頭のペースアップについていこうとした。
案の定、登りを終えたところで心肺オールアウト。デットラインを超えてしまった。こうなると自分は1分ぐらい何もできない。
この時自分のインカレは終わった。
今思えば、集団前方に位置していたメリットをフル活用し、先頭から下り集団最後尾につくことを目指してゆっくり登れば良かったのである。
集団は伸びている分前方と後方でタイム差がある。このタイム差で休めば良かった。自分は馬鹿なことに集団前方に固執しようとした。自分の意識していたことが逆に自分の首を絞めた。
脚は全然残っていた。なぜなら心拍立て直してから集団を追走できたのだから(まぁ群馬で単走で追いつくことなんてほぼ無理なんですけどね)。
参考になるのかわかりませんが残しておきます。
自分は心拍数のマネジメントに失敗した。本来短時間高強度が苦手な分、先頭にいることでアドバンテージを稼ごうとしていたのに肝心なところで頭が回っていない。
レースは柔軟な対応が肝心だ。経験不足と言えば、経験不足。実力不足と言えば実力不足。弱かったと言えば確かに弱かった。
自分の4年間の集大成がこれかと言われれば非常に呆気なく、そして残念だが物事には区切りがある。私に与えられた時間は無くなった。自転車競技に対して見切りをつけなければならない。
こんな結果だが後悔はない。自分のできることはやった。それでダメだった。
それで終わり。
インカレの数年ぶりの完走者となることを目指してここまで私なりに頑張った。しかし私はダメだった。それまでの人間だった。強い人からすれば有象無象の類いで終わった。数年後には忘れ去られる存在だろう。
加えて私は主将だった。近年稀に見る競技実績を持たぬ主将だった。歴代の主将は全国優勝だったり、クラス1だったり団体種目入賞だったりと輝かしいものを持って引退している。私は何もない。これは私の中で地味に気にしていたことである。
2年後期に副将になってからいろんなことを行ってきた。競技実績で部を引っ張ることができない人間だからこそより良い部にして部や部員のためになりたかった。競技実績で部員を引っ張ることができていない人間のやることは説得力を持つのか、部員から侮蔑されていないか気になることもあった。
私なりに主将業務も頑張ったつもりである。私のやったことが誰かのためになったのか。部員にとって私はどんな存在だったのだろう。私のレガシーはあるのだろうか。私は誰かに認められたかったのかもしれない。
もっとこうしてあげればと思うこともある。部の失敗は主将の責任でもある。今回で言えばロードで完走者を出すことができなかったのは私の責任だ。
ここまでネガティブ強めだが、自転車競技で得たことも多くある。
物事としっかり向き合い取り組むことの大切さ、多様な考えを聞くことの大切さ、積極的なコミュニケーションの大切さ等、自転車競技を通じて多くのことを学びそして成長することができた。自転車競技をやっていて良かったことなんてここに挙げれないほどたくさんある。
大学入学前に比べて今の自分の方が様々なことを経験して遥かに成熟していると思う。加えて自分に自信を持つことができた。
単純に今の自分の方が好きだ。
ここら辺の部分は振り返りブログで書いていることにも重なる部分があるので省略します。(振り返りブログの続きは気が向いたら書きます。)
いろんなことを試行錯誤して壁を一つ一つ超えていく。自転車競技ってそういうスポーツだと思う。”努力”はほぼ裏切らないし、競技と向き合っただけ成長がある。
そんな自転車競技って最高だと思うし、4年間しっかり取り組んで良かった。
もしもう一度大学生活をやり直せるとしても慶應義塾体育会自転車競技部に入るだろう。
そしてまたクラス2昇格に苦しむんだろうな笑
最後に
今まで多くの方々に支えられて4年間を迎えることができました。
小野さん達の代の方々、大喜多さんの代の方々、小林さん熊谷さん石山さんなどの先輩方。
その中でも特に師匠であり本当によくしてくれた蛭川さん、福田さん、飯井さん、
今の自分があるのは偉大な先輩方のおかげです。ありがとうございました。
続いて可愛げのない3年生。
私に反抗的かつ愉快な3年生に囲まれて私は楽しかったし、幸せでした。コロナ前を知る最後の世代としてチャリ部の伝統?の維持よろしくお願いします。
ありがとうございました。
強すぎる2年生。
各々自我が強く主張が激しい2年生。色々思い悩んで部活やっている人が多い気がしますが、残りの部活人生色々悩み尽くしてください。そして新幹部として強い慶應を今後も頼みます。2年生は自分にとっていい刺激だったし、色々学ばせてもらいました。
ありがとうございました。
よくわからない1年生。
まだよくわかりません。1年生にしてあげられたことは少なかったかもしれない。ただ山田のみならず六川中野も続ければ絶対強くなると思う。西田もいいキャラしてるし濃密な世代になりそうです。2年生を追い越す勢いで頑張ってください。
ありがとうございました。
同期の皆様。
特に語ることはございません(笑)。これからもよろしくお願いします。
そして他大学&社会人の皆様。
本当にありがとうございました。特にコロナ禍以降本当に皆様の存在は自分にとって最高の刺激かつモチベーションの源泉でした。多くのことを学び、強くなれました。多分この繋がりはまだ終わりではないでしょう。これからもよろしくお願いします。
信大井上、中田、学習院長谷川など互いに意識し合い切磋琢磨してきた他大の同期と一緒にインカレに出れたのは最高に嬉しかった。
最後に
宇佐美監督とOBの方々。
4年間本当にお世話になりました。数え切れないほどたくさんアドバイスをいただき、また助けていただきました。本当にありがとうございました。
最後の最後にここまで最高の支援をしてくれた家族と親族の皆様。
本当にありがとうございました。レース以外での落車なしというほぼ無事な状態で引退を迎えることができました。
4年間の全てにありがとう。
・部活を通して印象に残っている曲
What it started
What it ended
p.s.相当考えながら文章を書いた。結果何もまとめることができなかった。
駄文失礼。
終わり
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