サイクリング部

インカレブログをみんなアップロードしないので、就活の時からあっためてたこのブログ(メモ?)を一旦放出します。覚えてることだけ書いてますのであしからず。

高1

なにか新しいスポーツを始めたいとおもって部活探し。中学は卓球をやっていたが自分の中で目標は達成できたので辞めた。やめるに至った考えちゃんとはあるが割愛します。

候補はラクロス、バド、チャリ、ボートなどなど。色々体験に行ってみて、最後に行ったチャリ部が自分に合っていそうだと思って入った。ラクロスは朝練が無理そう、バドミントンはコートが少なくて先輩優先なので一年はコートを使えないと言われた。チャリ部以外ではボートも魅力的だったが、埼玉に泊まり込みで練習するのが渋かったのと、監督がほとんど仕切っている感じが好きじゃなかった。

チャリ部が良いと思った理由は、かなり自由、面白い人が多そう、他の部活よりも親切に対応してくれた、チャリに乗るのは好きだった。などなど

仮入部してから外練に連れて行ってもらった。千田さんと杉岡さんとK2に行った。40キロ巡航と呼ばれているものについていけて褒められたのを覚えてる。

1年生の頃はとにかく先輩や川野についていくだけの練習で、特に自分でなにか考えて練習していたわけではなかった。ただ無心で練習していたけど上りで先輩や同期に勝てるようになったりと少しずつ強くなっている感覚はあった。新人戦も完走はできた。正直目標とかは何も決めずに部活をやっていた。蓼科と館山で大学生とも走ったりしたけど、とにかく頑張ってついていこうぐらいしか考えてなかった。

この頃の練習はというと平日は放課後練で2時間ほどのロード練か、室内練だった。土日の練習は湘南国際村や小山田、某埠頭など。このころパワートレーニングなんてものはもちろん知らないので、耐久走みたいな練習は全くやっていなかった。

定番の放課後外練メニューはCコースの坂もがきあい(30sec)と長尾(1.5~2min)リピート。とりあえずきつい練習をやっていた。学校発着なので門限があって、いつもぎりぎりで帰っていたのを思い出す。走行距離は管理していなかったが週間練習時間は10~15時間くらいだろうか。

初めてのバンクは夏合宿の境川で。ピストの数が足りず自分はロードバイクで走った。初一キロとハロンはそれぞれ1分22秒くらいと13秒くらいだったと思う。

終わってる1キロ

新人戦が終わって、冬に楽車してターマックが壊れた。そしてこのとき人生で初めて救急車に乗った。ご迷惑をおかけしました。これ以降救急車に乗ることなく引退できたのは良かったと思う。年末は新しいフレームを買うために毎日のようにチャリ屋をチェックしに行っていた。おかげで交通費がめちゃくちゃかかった。新しくスクルトゥーラを買うまでの間は部室にあったアンタレスというロードに乗ってた。懐かしい。

1年生の終わりにチャレンジロードにエントリーした。全日本資格の貰えるかなりレベルの高いレースだということを知ったのはエントリー後で、正直焦った。一瞬でちぎれたら恥ずかしいなどうしようと思って、Vや小山田の練習は少し早めに来て一人で多めに練習したり、ローラー買って学校行く前とか部活から帰ったあとに乗り足したり。ここらへんからストラバで練習管理を始めた。コソ練タイプだったので、自主練はストラバのログ非公開にしたりしてた。

高2

4月 チャレンジロードでギリギリ全日本資格げっと。これよりレベル高いレースに出ることになるのかーと思って、もっと練習頑張ろうと思えた。あとは県総体で9位?くらいになって関東大会に出られることになった。自主練したり、なんとなく目的意識を持って練習するようになってから、以前よりも成長してる感じがあった。5月?の関東大会ロードレースは、台風のために中止。それによって県総体の結果でインターハイに出られることになった。

ここらへんまでトラックのやる気は全然なく、試合はとりあえず1キロ測っとくかーくらいの気持ち。バンクは正直行くのが渋かった。種目決めるときも、3キロとかきつそうだからやだな4速出るか、みたいな決め方だった。なんなら団体種目に出るのも少し嫌なくらいだった。今はそんなこと思っていないが。

6月 全日本@島根

全日本は初めての公欠だし飛行機遠征でワクワクした。大前さんと蛭川さんに初めて会った。ぎり完走したと思ったけどFADで順位はつかなかった。ここで、レース後に必ずお腹が痛くなることに気づいた。

全国大会に出ることはできたけど上位の人とはめちゃくちゃ差があるなと思った。でも、卓球のときに感じたような絶望感はなくて、自分が全国大会でそこそこ走れるようになるのも不可能ではないと思った。

夏休み入ってすぐに事故があって、部活は停止。気持ち的に自転車には乗れなかった。インハイもキャンセルしようと思ってた。

8月 インターハイ@修善寺

少ししてインハイには出よう、自転車頑張ろうと思うようになって、できる限りの練習はした。修善寺なので登り強くなればいいと思っていろいろな峠に行ってみたりした。新しい練習場所を開拓するのも楽しかった。がインハイは完走できず。期間は短かったけどインハイに向けて頑張ってきたつもりだったので悔しかった。でも、それもつもりなだけでまだまだ努力が足りないしもっと頑張れた。

インハイ2018

10月? 最後の新人戦。新人戦の結果で春のセンバツ大会への参加が決まる。トラックは四速で優勝できて気持ちが良かった。一キロは1分11秒とかで基準なんて知らなくてシングルが目標だったけどここでB基準は切ってた。一つの目安にはなるかも。

選抜は確か四速がないのでポイントレースで出場。ロードは、落車して選抜に出られず結構萎えた。そもそも落車してなくても選抜行けたかは微妙なところだったかもしれない。神奈川県のライバルたちは強かった。

冬は何やってたかあんまり覚えてない。普通に練習してただけだった気がする。いろんな峠行ったりしてたかも。箱根とかヤビツとか都民の森とか登ってた。

3月 選抜@北九州

ポイントレースは予選落ち。足がないのが第一だけど、今思うとレースの動き方とか全然わかっていなかった。位置取り下手くそ、脚の使い方下手くそ。

選抜ロードは出られなかったのでオープンロードという前座レースに出場。数人逃げて第2集団スプリントで9位とか。今思い返すオープンロードでもメンツ濃いめだったかもしれない。本戦では川野が3位表彰台でやっぱすごいなーと思ったとともに、ここに出場すらしていないのが悔しかった。

2年生からは一気に自転車のモチベーションが上がった気がする。実力が徐々についてきて、主体的に練習に取り組めるようになってきたと思う。ネットでいろんなトレーニングとか調べて実践したりした。でも強くなる一番の近道は魔法みたいなトレーニングをすることではなくて基本的な練習を地道に続けることでしかない。と思う。

そういえば2年生のときは主務をやっていた(消去法的に)。遠征届書いたり主務連みたいなのも出ていました。懐かしい。

高3

4月 県総体。ロードがたしか5位とか。五十嵐の逃げ切りだった。関東で頑張ってちゃんとインハイ出なきゃという気持ち。4速優勝、ポイント3位?やっとトラックが楽しくなってくる。

その後の高石杯で4位。このレースが一番ロードレース走った!と感じたレースで、人数の多い集団で前ひいたり、アタックについて行ったりできた。スプリントもまあまあかかるじゃんと思えた。

高石杯

この高石杯で山田壮太郎と一緒に走っていたらしい。まさか数年後に同じチームで走っているとは思いもしなかった。

6月 全日本ロード@富士スピードウェイ

集団の後ろでインターバルに耐えられずちぎれた。ここまでそこそこレースを走れるようになってきていただけに悔しかった。全日本はレベルが高かった。

たしか全日本の前後で群馬CSCの関東大会ロード⑧位。初めて逃げにチャレンジしてみたけどめちゃくちゃきつくてすぐに集団に戻ったのを覚えてる。でも、今考えてみるとここで逃げはどんなものなのか知れて良かった。インハイ出場は決定。二年のインハイは繰り下がりで出場できたので、やっと自分の手でインハイ出場を掴めた。

ここからはインハイに向けてロード練習メイン。沖縄のコースの登りが10分弱だったので、それくらいの登りでなるべく練習した。パワメを持っていなかったので比較が難しいが確実に早くなってる感じはしていたし10分弱という領域も弱い方ではなかったのでインハイロードは頑張ろうという気持ちだった。

8月 沖縄インターハイ

ポイントレース予選でハスって落車。代車に乗って走りきったけど頭打ったのか熱中症かフラフラだった。沖縄はめちゃくちゃ暑いし湿度も高いので辛かった。

おかげでロードの日までは暇になったのでロードに向けて調整できた。擦過傷がうざかったが。宿の近くに丁度いい上りがあってそこを走ってたら、なんか普通のナンバーじゃない車が増えていることに気づき、前を見たら米軍の何らかの施設で、殺されるかと思って全力で引き返した。

ロード当日。結果は長い下りでセンターポールに激突して落車してそのままDNF。

ポイントですでにコケているので腕に包帯ぐるぐる巻きで出走した。スタートからいきなり登りで、そこは特に何もなく。沖縄の道路は路面ウエットだとめちゃくちゃ滑ると聞いていたので慎重に下る。それでも滑っている人がちらほらいたので怖かった。2回目の長い上りも前でクリア。たしかその後の下りで前の選手がスッとポールを避けて、自分は避けきれずにぶつかって高速落車した。幸いめちゃくちゃ滑りながらころんだので骨折とかはせずに擦過傷のみ。なんだか急にレースが終わったのでよくわからなかった。高校での目標は全国入賞でインハイロードはいけるかも、、、と思っていたので非常に悔しかった。やっぱり自分の力を出しきれずに終わるのが一番悔しいが、自分の力を出し切るのが難しいのがロードレース。高校の目標を達成できなかったので、大学で達成しようとその日決めた。いままではここまでにこういう目標を達成しようとなんとなく決めて達成してきたので、初めて期限を守れなかったかもしれない。

大学でもやることは決めていたので、インハイ後に大学生の蓼科合宿に参加したり。そこそこ練習してジャパンカップのオープンレースに出たり。春には館山合宿に参加したり。その館山の途中で変なウイルスが中国で流行ってるらしいとニュースで報道され始めて、気づいたら合宿中止になって引きこもり生活の始まり。ちなみにこの館山合宿ではかなりFTPが鍛えられた。

高校三年間の反省を述べるなら、大きく2つ。1つ目は高校生の頃にもっとベースを鍛えるべきであったこと。弱いベースの上では伸び率もすぐに下がってしまう。2つ目はもっとレース経験を積むべきであったこと。高体連のスケジュールだと秋の新人戦→選抜、春の県総体→関東総体→全国総体(インハイ)この5レースしかなく、これは全国大会に出られた場合なので最低2レースで終わる可能性もある。全日本や高石杯、秩父宮杯などもあるがそれを含めてもかなり少なく、積極的に外部のレースに出るべきであった。

高校での練習の殆どはスプリントや高強度インターバルで、たしかにクリテ向きの選手になるよなあという感じ。やはり環境が脚を作ると思います。

書ききれなかったり覚えてない出来事がいっぱいあるけど、高校回想ブログはここらへんでおしまいです。なにか参考になれば嬉しいです。

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